見えないものを観る贅沢
贅沢とは、感覚を働かせ、見えないものを見ること。
たとえばある日の午後。長時間、根を詰めて椅子に座り続けたことに気づく。
硬くなった身体を動かすために、椅子を離れ、窓を開け放つと
どこからともなく漂ってくる沈丁花の香り。
うながされるように空を仰ぐと、トンビがくるり、くるり、と舞っていた。
ハンググライダーは、頬にあたる風や音を聞き、感覚を研ぎ澄まして風を読むが、トンビはその柔らかな羽でもっと軽やかに繊細に風をたくみにとらえ、世界を眺めている。
窓から遠望する私は、彼らのように空を飛ぶことはできないが、その恩恵を受けることができる。
弧を描く彼らの舞いをたどれば、見えない風の道が浮かび上がってくる。
時折、ピーヒョロロ、と声が響く。
電車のホームで時折聞こえてくる鳥のフェイク音とは訳が違う。
音を聞いているのは耳だけでなく、全身。
自然音の響きはソナーのように身体を癒す。
大事なのは聴覚が捉えるのは音そのものだけではない、ということ。
山や木、あるいは建物に反射する音の響き方によって「空間」のかたちを見ている。
視覚が不自由な人たちの中には、舌で出すクリック音の反射で空間を読み自在にマウンテンバイクをあやつる人がいる。
このエコロケーションはだれでも訓練により、習得できるそうだが、トレーニングを積んでいない私でも音を感じ、見えるものがある。
大気が澄み乾いている冬の音はどこまでもよく響き、湿度の高い夏の音はより身近に感じる。雨の日もやっぱりそうだ。
私は音で季節を見ている。
見えないものを見ると、心の内側が深みを帯び、満たされていく。
日常に欠かせなくなってしまったスマホを取り出し、画面を眺める目の働きとは明らかに違う世界がある。
便利なものに囲まれて暮らしが楽になる一方で、感覚は椅子に縛り付けられているのかもしれない。
ストレッチが身体の動きを自由にするなら、感覚にもストレッチがあるといい。
「感覚」に気持ちを向けると視点は豊かになり、さまざまなことへの理解は深まる。
人として生まれ持つ「感覚」を充分に働かせる贅沢。
これからの時代のトレンドではないかと思う。
Photos: Yukimasa Hirota